八王子「平和のまちづくり」アイデアコンテスト
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八王子ってこんな街
 八王子のおこりと由来
 東京都西部の盆地にある私たちのまちは、縄文時代中期の椚田遺跡のほか、数多くの遺跡が点在しており、有史以前からの古い歴史をもつとされています。「八王子」という地名は、16世紀に北条氏照が築いた山城・八王子城にちなみ、この深沢山(現在の城山)の山頂に牛頭天王の使者である8人の王子を安置する八王子社が祀られていたことに由来しています。

 江戸時代: まちの始まり ~甲州街道最大の宿場町~
 江戸時代には甲州街道の宿場町(八王子宿)として栄えていました。周辺の村々では絹織物や養蚕、蚕の飼料となる桑などがさかんに生産され、八王子は「桑の都」の美名で親しまれました。現在の八王子市と神奈川県横浜市を結んだ神奈川往還(国道16号)は「絹の道」の愛称で知られていますが、生糸や米などの集散地であった旧市街地には商業や流通業などを生業とする人々が多く暮らし、この頃から「八王子まつり」でも親しまれる山車が曳かれるようになり、提灯職人や仕事師、芸者などが集う象徴的な都市文化が醸成されました。

 明治時代・大正時代~ : 八王子市の誕生
 明治時代には、町村制の施行に伴い「神奈川県南多摩郡八王子町」となり、南多摩郡の中心地として郡役所などが設置されました。いっぽうで自由民権運動に代表される文化・交流の拠点となり、1893年に東京府へ移管、1917年9月1日の市制施行により人口約4万人、面積7.3平方キロメートルの地方都市として「八王子市」が誕生しました。

 戦争と八王子: 八王子大空襲 
 アジア・太平洋戦争敗戦のわずか13日前、1945年8月2日未明に、八王子市は約180機のB29爆撃機による空襲を受けました。この空襲による死傷者は2500名以上にのぼるといわれ、約12,000戸もの建物が全焼、当時の市街地の面積にして約8割が、たった数時間のうちに焼失してしまいました。それまでまちの基幹産業であった織物工場は、日中戦争から太平洋戦争にかけて大きく衰退し、かわりに軍需工場や軍の関連施設が続々と建設されましたが、これが八王子大空襲の大きな原因となりました。

 まちの復興
 敗戦後、トタンで囲ったバラック建てで凌ぐ生活は困窮を極めますが、平和憲法、近代的な自治制度、婦人参政権などの確立を背景に復興の機運が高揚し、いっぽう1946年に戦災都市の指定を受けたことですみやかに復興計画が策定され、応急簡易住宅や商店兼用住宅などが建設されています。

 発展する八王子
 1950年代から1960年にかけて浅川町などと合併し、市域が拡大され、1960年代には内陸工業団地や北八王子工業団地などの工業団地が造成されたことで人口は急増しますが、工業団地による企業誘致は都市基盤の不足をいっそう顕在化し、新たに大規模な開発事業が要されました。このようにして、1965年に「多摩ニュータウン」の造成事業が開始されます。「多摩ニュータウン」は日本最大規模の新都市として知られ、スタジオジブリのアニメ映画『平成狸合戦ぽんぽこ』の背景にもなっています。

 八王子市の現在
 かくして八王子市は、その誕生から90年余りを経て、人口約55万人、面積186.31平方キロメートル、23の大学等を抱える学園都市として発展する多摩の中核都市となり現在に至ります。

 八王子市の平和行政
 支庁舎や市民センターなどで「世界の平和はみんなの願い」という標語をかかげ、折にふれて「平和憲法の精神を尊重し、世界の恒久平和を実現していく」と宣する八王子市ですが、このまちでは、かねてより「世界連邦平和都市宣言」(1978年12月21日 公告)ならびに「八王子市非核平和都市宣言」(1982年6月29日 公告)が踏襲され、さらに「八王子市非核平和都市宣言」においては、その一〇周年を記念する『平和の像』が富士森公園に建立されるなど、以来、その意欲的な取り組みは継承されてきました。

 なかでも『平和展』は、とりわけ意欲的な取り組みといえます。年に一度、かつて空襲を受けた8月2日をまたいで平和推進事業『平和展』が開催されています。この『平和展』において、2008年度から公募市民や学生、八六九会、世界連邦運動協会八王子支部、郷土資料館ボランティアなど市民と団体からなる「平和展実行委員会」が設置されるようになったことで、広く平和に関係する人々からいっそうの注目をあつめるものとなりました。
今年(2010年)の7月29日から8月2日まで開催されていた『平和展』では、朗読会や戦争体験者による語り部、八王子空襲についての講演会などが開催されたほか、市内の小中学生が平和をイメージして描いたポスター、広島・長崎に投下された原爆についての写真パネルなどの資料、さらに現代の世界における紛争の実情を報告する資料などが並べられていました。何かを心にとどめようといった様子で展示をじっと見つめていた小中学生たちの姿が印象に残ります。

 戦争の傷跡 ~市内の史跡案内~
・ ランドセル地蔵 (泉町・相即寺)
 7月8日、学童集団疎開をしていた神尾明治君が、P51による空襲で亡くなりました。悲しんだ母親は、息子の面影に似た地蔵にランドセルをかけます。児童作家・古世古和子さんによる『ランドセルをしょった地蔵さん』として世に知られています。

・ 大和田橋 (大和田町)
 1945年8月2日未明、八王子市街地はB29爆撃機による空襲で市街地の約8割が焼失し、生き地獄の様相を呈したと伝えられています。大和田橋の1997年の補修工事の際に、八王子大空襲の焼夷弾による弾痕のメモリアルとして2ヶ所の透明板と15ヶ所のカラータイルが配置されました。

・ 湯の花トンネル (裏高尾町)
 8月5日、高尾山にほど近い中央本線の湯ノ花トンネルにさしかかったところで、長野方面の疎開地に向かう人々を乗せた満員の列車が米軍機P51による機銃掃射を受けました。一部をトンネル内に残したまま列車は炎上し、多くの民間人が犠牲になりました。1984年に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が結成され、八王子市裏高尾町の「戦災死者供養塔」で毎年8月5日に慰霊の集いが開かれます。戦争の惨禍を知る人が少なくなるなかで「悲劇の記憶」は有数の機会の折に後世へと伝えられています。

・ 八王子郷土資料館 (上野町)
 歴史に関する博物館の登録(博物館法)を受けており、市民の文化財保護運動を経て市が建設した多摩地域ではさきがけとなる郷土資料を対象とした博物館です。40年以上の実績を持ち、約10万点の資料を所蔵しています。

・ 浅川地下壕
地下工場は全国2000カ所に及び、原爆が投下されてからも計画は中止されずに掘削作業が継続されていたといいます。なかでも浅川地下壕はとりわけ広大で、その全長は10キロメートルに及びます。アジア・太平洋戦争末期、陸軍の計画によって当初は「倉庫」という名目で工事が始まりますが、やがて中島飛行機武蔵製作所の地下工場として操業が開始されています。

・ 平和の像 (台町・富士森公園)
 1993年、八王子市非核平和都市宣言の一〇周年を記念して建立されました。

・ 戦災死没者之墓 (緑町・緑町霊園)
お問い合わせ先: 電話:080-3386-5962 FAX:020-4624-2381 メール:peacetown8@yahoo.co.jp

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